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九転十起 事業の鬼・浅野総一郎 出町譲

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戦前の大財閥の一つ、浅野財閥の創始者、浅野総一郎の伝記
電力の鬼、松永安左エ門さんが松下幸之助さんなどよりもずっとすごい、と言っていたので
知りたいと思って借りてきました。

ひどく真っ直ぐで従業員思いの人でした。
とてもおもしろい本

浅野総一郎の奥さんも非常に働き者で、
かつ慈善家の鏡と言っていいい。
多くの前途ある貧しい若者に自分とわからないよう多額の寄付・支援をしていた。


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浅野財閥は安田財閥の安田善次郎の資金援助を受けていたのですが、
この安田善次郎、資産が当時2億円あったそうです。
当時の国家予算は16億円だったので、国家予算の8分の1にあたる額を持っていて、
おそらく日本の歴史上最も金を持った男だそうです。
今で言えば「10兆円以上」

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浅野総一郎は渋沢栄一とも親交が深かった。
最初の会合で意気投合した二人

渋沢は別れ際に
「あなたは腕で飯を食べるように仕事をなさっていますが、それをこれからも続けてください。
偉くなると、自分が動かずに部下に指示ばかりしている人が多いのですが、
上に立っても、自ら行動することが大事です。」と言った。
総一朗は感心した。
「腕で飯を食べる」。いい言葉だ。
どんなに偉くなっても、自分で働こう。
汗をかいて働く事こそ、俺の生きがいだ。

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浅野総一朗が経営していた磐城炭礦会社は、実は現在まで形を変えながら、存続している。
現在の社名は常磐興産株式会社。
東日本大震災以降、この会社がいわき市で運営するリゾート施設に日本中が注目した。
スパリゾートハワイアンズだ。

この施設の売りは、フラガールだ。

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大倉(大倉喜八郎)も、渋沢(渋沢栄一)と総一郎という有力者を巻き込むほうがリスクが小さくなると思った。
この3人が中心となって札幌麦酒を設立することとなった。
札幌麦酒は北海道庁からも認可を受けて明治21年(1888年)1月1日に正式発足した。
それが今のサッポロビールのルーツである。

総一郎は、輸入商社に勤務していたサク(妻)の兄、鈴木恒吉を経営陣の一人に加えた。
札幌麦酒は明治39年(1906年)に、エビスビールを販売する日本麦酒と、
アサヒビールを販売する大阪麦酒と合併し、大日本麦酒となる。

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明治24年(1891年)10月に濃尾地震が起きた。
マグニチュード8.0。
最大級の内陸型地震で、死者は7200人以上だった。
大惨事となったが、一方でセメントの建築物の耐震性が証明された。
地震でもびくともしない建物が多かった。
総理大臣の松方正義が現地を視察し、セメントは耐震性に優れているとアピールした。
国民の間でセメント需要が大いに高まった。

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輸入されたロシア産灯油を保管するため、総一郎は横浜に石油タンクを造る計画をぶちあげた。
しかし、横浜の住民は、タンクが危険だとして、反対運動を起こした。
「タンクが爆発したら街全体がふっとばされる恐れがある。」
「タンクから灯油が海に流出すれば、魚が死んでしまう」
反対派は、伊勢崎町の劇場前などで連日のように演説した。
工事現場で焚き火をして、気勢を上げる集団も居た。
漁師の一部は、横浜から船を出して、隅田川沿いの東京・日本橋北新堀の浅野事務所に押しかける。
反対派議員が雇ったやくざ者が凶器で、総一郎を脅すこともあった。

ここまで
現代では石油タンクが原発などに置き換わっただけで行動が全く変わらないことがわかる

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浅野総一郎の娘婿の白石元次郎は明治45年(1912年)6月8日、
日本橋倶楽部で、設立総会を開いた。
社長は白石で、取締役兼技術長が今泉だった。
工場は川崎の埋立地に建設することになる。
その後、日本鋼管は民間鉄鋼メーカーの先駆けとして急成長。
新日本製鐵(現、新日鉄住金)に次ぐ業界二位の地位となる。
2002年に川崎製鉄と経営統合し、現在はJFEホールディングスとなっている。

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朝の造船にて巨大船が完成し、進水した日はお祭り騒ぎだった。
多数の労働者が打ち上げで酒を飲んだ。
嬉しさのあまり、手に提灯を持ち、総一郎に喜びを伝えようとした。
鶴見から田町の紫雲閣(浅野総一郎の立てた迎賓館のようなもの)まで練り歩く大行進だ。
ところが、折り悪く激しい雨が降ってきた。
紫雲閣の玄関に辿り着いた時には、労働者達は濡れネズミになっていた。
さすがに、紫雲閣に入るのをためらった。

中では総一郎は労働者たちの到着を首を長くして待っていた。
玄関の前でとまどっている労働者らを見ると、
「汚れても構わん。遠慮せず、家に上がってくれ。
この家は君たちが造ったようなものだ。
君たちの努力があるからこそ、完成した」
と大声で招き入れた。

労働者は大喜び。
ずぶ濡れにもかかわらず、紫雲閣の中で、歓待された。
「社長ありがとうございます。」
感無量になって涙をながすものもいた。

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ユニバーサル造船は、源流をたどると浅野造船所に行きついたのだ。

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