シナ事変・大東亜戦争の戦没者は232万余柱です。
この戦没者を合祀するにあたってのその資格の判定などの事務は、
陸海省の事務を継承した第一・第二復員省も解散したので厚生省に引き継がれました。
(引揚援護庁という独立機関が昭和29年(1954年)に厚生省の一部局となる)
そこで、厚生省は昭和31年(1956年)4月19日に引揚援護局長が
「靖国神社合祀事務に関する協力について」
との通知を全都道府県に発した。
これにより、外地において未決拘禁中に死亡した者(病死・自決など)は早くから合祀されていたが、
確定判決を受けて死亡した者が初めて合祀されてくるのが昭和34年(1959年)の春季合祀祭である。
このとき、戦犯とされた刑死者も「法務死」として合祀対象とする行政通知を
昭和34年(1959年)3月10日付引揚援護局復員課長より
靖国神社調査部長宛に発出している。
が、1か月後の同年4月4日に、この「復員第316号」の通知が
世間に漏れることを恐れて非公開にすることを通知している。
この後、引揚援護局から靖国神社に新たに合祀対象者が通知され、
靖国神社も合祀を行っていくのですが、
いわゆる「A級戦犯」の祭神名票が靖国神社へ送付されたのは昭和41年(1966年)です。
これに伴い、昭和46年(1971年)崇敬者総代会においてA級戦犯合祀が了承されました。
この頃、靖国神社を宗教法人から特別法人とするか否かの
靖国国家護持運動が行われていました。
いまのような特定の宗教団体が持つのではなく、
国家が所持するべきものにすべきである、という考えに基づいています。
この運動に対する見解を政府としてどうするのか、国会でずっと論議が行われ、
昭和49年(1974年)廃案となります。
この運動があったため、実際の合祀はこの段階でまだ行われていませんでした。
昭和53年(1978年)筑波藤麿宮司が逝去され、
代わって松平永芳さんが靖国神社宮司に就任します。
そして、同年昭和53年(1978年)10月17日の霊璽奉安祭(第106回)で合祀しました。
「ユダヤ難民を助けた日本と日本人 上杉千年」をもとに編集
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靖国神社へのいわゆる戦犯者の合祀への道のり
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