Image may be NSFW. Clik here to view. ![]() 【送料無料】緒方竹虎とCIA [ 吉田則昭 ] |
緒方竹虎は、「大本営参謀の情報戦記」において、
戦後日本で情報機関をつくろうとしていた、と描かれている。
興味が出たので借りてみた。
この手の本で、よくCIAのエージェントとかそういう情報が書かれている場合があるが、そんな単純なのだろうか。
海外の情報機関から情報収集する場合、こちらからもある程度情報の提供は必要だろうと思う。
決定的なものを渡す、あるいはもらわずに渡すのであれば、アウトであろうが、
そうでなければ、普通な気がする。
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朝日新聞は娯楽中心の小新聞として出発しながらも、
それを基盤にして報道、言論活動にも触手を伸ばし、
従来の「小新聞」の枠からはみ出た階層を開拓し始め、実際ある程度成功してきたのであった。
それは、例えば、1889年2月に明治憲法が発布された時、その憲法の全文が電報で東京朝日から大阪朝日へ送稿され、街中でも号外が配られた。
それは日本の新聞史上の夜明けでもあった。
それまで政論新聞として、意見を売り物にしていた新聞が、初めてニュースを商品として扱い、
商業新聞としての第一歩がここから始まったと言えた。
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二・二六事件
朝日新聞社への襲撃ぶりはひどいものだった。
多数の反乱軍が機関銃を据え付けて社内に乱入し、
活字ケースをひっくり返して新聞の発行を不能にした。
主筆の緒方は、反乱軍指揮官と一人で対応し、いささかの動揺も示さなかったとされる。
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ゾルゲ事件では、緒方自身の系統の人物の中から国事犯を出したこと(尾崎秀実の逮捕)が、
緒方の立場を苦しいものとした。
ゾルゲの逮捕後、朝日からは尾崎のほか
東京本社政経部長・田中慎次郎と
陸軍省担当の同部員・磯野清の二人が逮捕された。
磯野が陸軍部内から南進策の極秘情報を入手して田中に伝え、
それを田中が尾崎に漏洩したという容疑であった。
田中ら二人は結局、スパイ組織とは無関係でああることが分かったが、
朝日新聞社は謹慎の態度を取り、田中を休職とした上で、二ヶ月後に退社させ、
同時に東京本社編集局長・野村秀雄と編集責任担当者・緒方竹虎の解職を発表した。
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緒方竹虎の遺稿
鈴木内閣が辞職した後の局面は到底普通の臣下で収拾できるものではない。
皇族の内閣首班ということは平時にあってはもちろん賛成できないが、
今の眼前の問題は、軍の不満言動を抑えて無条件降伏の後始末としての武装解除をし、
連合軍をして一つの突発問題なく進駐せしむることである。
しかも一歩を誤れば、せっかく陛下が一億蒼生を憐れませ給う海岳の御思召から下された
終戦の聖断が無意義になるのである。
この際は宮中も府中もない。
臣下でこの大任に堪える者がなければ、宮殿下を煩わすより外はない。
しかも東久邇宮ならば平生承知する御性格からも必ずこの大任を完了されるに違いない、
と考えたので、殿下のご決心を感謝し、直ちに犬馬の労をお引き受けした。
小磯内閣の時と異なり、今度は言下にお引き受け申し上げた。
何となしに最近の健康が気遣われたが、事態は健康を顧慮している時でもないし、
事実また局面の収拾如何によっては生命は幾つあっても足りないと考えたからである。
今度は本当に死に場所を得たような感で、半面身の果報をすら感じた。
(緒方竹虎伝記刊行会、146頁)
東久邇宮が、特に緒方に期待していたのは、緒方の言論人としての文筆能力、世論の動向に対する洞察力であった。
東久邇宮の演説、記者会見、放送原稿などは、すべて緒方の筆によって書かれたものであった。