一、 満州は蒙古人、朝鮮人及び日本人と同種たるツングス族に属する満人
により居住せられておりました。
満人は中国本部の漢人と全く異なるものであります。
而して漢人は満州に大なる勢力を及ぼしたことなく却って
満人が1911年の革命に至るまで三百年間中国を支配していたこと
を立証いたします。
清朝と称された満州帝国の政策は満州を封禁の地として漢人の移住を制限し、
永くこの地を満人のものたらしめんとするにありました。
この制約は後年緩和せられ革命後は消滅するに至りましたけれども
中国本部の革命的影響より該地域を保全せんとする保境安民の念願は満人の真情であり、
これはまた内乱より逃れて満州に平和郷を見出した中国移民により
共鳴せられていたことを立証いたします。
かくて今世紀初頭においては未開にして人口も少なかった満州が
その後40年間に一千万人以上の中国の移民を招来したのは主として
内地人及び朝鮮人居留民の経営の賜物であることを明らかにいたしたいと存じます。
二、1920年ソ連は蒙古人民共和国を独立国として承認しました。
1922年には馬賊の頭領より身を起こして元帥とまでなった張作霖が
満州の独立を宣言し列国と独自の外交関係を樹立せんと試みました。
1929年にはソ連の満州侵入という事件がありました。
その頃張学良の奉天政権はその収入の9割を軍費に当て紙幣は100倍以上にも
その価値が下落する有様で張家の秕政に対する満州人の憤激は甚だしく、
清朝の廃帝をその祖先の地に迎えようとの望みを抱くものも
少なくなかったのであります。
されば奉天事件後満州人の行動は表面化され彼ら多年の希望が公然実現されようとする
状態になったことを立証いたします。
1931年9月24日袁金鎧(えんきんがい)氏は遼寧省地方維持会の委員長となり、
26日熙洽将軍は吉林省の独立を宣言し、
27日張景恵、丁超、王瑞華等の将軍は特別行政区非常時委員会を組織し、
29日湯玉麟将軍は熱河省の自治に対する全責任を執り
同日于(くさかんむりに止)山将軍は東辺道の自治を宣言し、
10月1日には張海鵬将軍が洮南に独立を宣言しました。
奉天事件後かる短期間にかくも多数の独立運動を鼓吹することは
関東軍としても不可能であってこれらの運動は奉天及び吉林を除き
日本軍が未だ駐進せざる地域において行われたものであることを立証いたします。
加えるに東京政府は在満日本軍官憲に対し満州人の新政研運動に対して
関与すべからざることを数次に渡り訓令していた事実が証明せらるるでありましょう。
三、前記各省の地方的独立運動とともに宣統帝すなわち溥儀氏
擁立の民衆運動が存在していたことを立証します。
ーー中略ーー
1931年10月ないし11月の張海鵬将軍と馬占山将軍との勢力争い及び
1932年1月の熙洽将軍に対する丁超将軍及び李杜将軍の反抗は
張景恵将軍その他満人有力者の調停により解決されました。
さらに保境安民運動の提唱者たる于沖漢氏が旧政権よりの離脱及び
新国家の建設を主張した事実も証明されるでありましょう。
1932年2月16日、奉天において張景恵、そう式毅、熙洽、馬占山、湯玉麟
の諸将並びに斉王凌しょう及び趙欣伯氏が組織した
東北行政委員会の名のもとに会議が開かれ、この委員会により
1932年2月18日、満州の独立は宣言せられたのであります。
而して全会一致の決議により溥儀氏は新国家の元首に選ばれ
3月9日満洲国執政に就任し鄭孝胥を国務総理とする
同国最初の政府を組織しました。
すなわち満州国の独立は明らかに満州人永年の伝統及び必然的結果
であることが立証せらるるでありましょう。
東京裁判 日本の弁明 小堀桂一郎より
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東京裁判における満州の特殊性 ワーレン弁護人冒頭陳述より
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