著者の斎藤良衛は、外交官で、松岡洋右が外務大臣として日独伊三国軍事同盟を締結したときの外務省顧問
当時の条約締結は外務大臣が単独で行ったもののようで、外務省の役人は経緯を知らず、
著者は同盟締結の経緯を秘録として外務省に提出したが、戦時中に消失してしまい、
戦後改めて外務省に提出した上で、一般に公開している。
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1941年12月8日、米英両国と戦争状態には入れリという大本営発表に驚いた私は、
時あたかも外務大臣の重任を退き、宿痾を養っていた松岡洋右の千駄ヶ谷の私邸に駆けつけた。
私の顔を見るなり、彼は、病にやつれた眼に涙をためて言った。
「三国同盟の締結は、ぼく一生の不覚だったことを、今更ながら痛感する。
ぼくの外交が世界平和の樹立を目標としたことは、君も知っているとおりであるが、
世間から僕は侵略の片棒担ぎと誤解されている。
僕の不徳の致すところとはいいながら、誠に遺憾だ。
殊に三国同盟は、アメリカの参戦防止によって、世界戦争の再起を予防し、
世界の平和を回復し、国家を泰山の安きにおくことを目的としたのだが、
事ことごとく志とちがい、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。
これを思うと、死んでも死にきれない」と。
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松岡には他人のやった仕事でも、自分がやったのだ、自分が教えてやったのだと、いいたがる癖があって、
時にはそれに引きずられて、自分のほんとうの考え方を不透明にした。
彼が渡欧して、ヒトラーやリッベントロップから、日本軍によるシンガポールの攻略を勧められると、彼は「それは私がとうから考えていたことだ」と、かさにかかったことなどは、この悪い癖のさせたわざだった。
彼が帰朝すると、すぐに私は彼に「シンガポール攻略をドイツと約束したとの噂がとんでいるが、本当か」とただすと、
「いや何も戦法に言質を与えるようなことはしなかった」
と答えていた。
連合軍のベルリン占領後まもなく、アメリカ国務省が公表した没収ドイツ文書を見ると、
シンガポール攻撃の時期は、日本自身が決めるべきものだといったふうなことを、
松岡はヒトラーなどに話している。
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日本側には周到な調査や準備があったとは見えない。
外交顧問に任命されると私は、同盟問題の起こることを予期し、過去の成り行きを研究してみたが、驚いたことにはわが外務省の記録には、綿密な準備調書が殆どなかった。
陸軍側にあるのかと思って探ってみたが、ここにもそれがなかったもののようで、
同省から借りた書類には、ほんのお座なりの、ひとりぎめの一群の方針案以外の何物でもなかったといっても良い。
しからば第二次近衛内閣成立以来、充分な準備期間があったのかというに、これまた同様であった。
この内閣の成立が、1940年の7月の半ばで、三国同盟の大綱が、松岡とスターマーとの間でできあがったのが、9月の初め、その間わずかに二ヶ月足らず、しかも最初の一ヶ月余は、松岡の態度が全く決まらなかったばかりか、むしろ反対だったのだから、彼の態度が同盟に傾いて、いよいよ実行するまでの日子は、10日ほどの短期間にすぎなかった。
これで、もし充分な準備ができたとすれば神業である。
かくて三国同盟は、無準備不用意のうちにできあがってしまった。
話は少しく後のことになるが(日時は記憶しない)、市ヶ谷の国際軍事裁判に、
私が証人に呼び出された時、同じく証人としてドイツから呼び出されたスターマーに、
弁護人の部屋でひょっくり会ったので、三国同盟についてのドイツの真意を、いろいろと聞いてみた。
それではじめて知ったことだが、ドイツの準備調査は、日本の軍事、政治から、社会問題や経済事情に至るまで、かなり詳細で、日華事変や日米関係の見通しや、その他一々具体的事実に基づいて立論した約三十冊の準備書類があったということだ。
かれこれの用意の程度が、あまりにも相違していたのを知って、肌に粟が生じたことだった。
無準備、急ごしらえの粗造条約、これが三国同盟に関する日本側の真相を尽くした言葉である。
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田中(都吉、駐ソ大使)が満洲国政府ができて間もなく、同国を視察し、帰朝の上御前講演を仰せつかったことがある。
談が満洲国政府組織におよぶと、陛下から日本人官吏がたくさんはいっているそうだが、
満州人官吏と比べて、どちらが多いかとのご下問があったのに対し、
機知に富んだ田中は、即座に兎肉サンドイッチの比喩を申し上げた。
それは次のような話であった。
ワシントンで兎肉サンドイッチを売りだして大もうけをした店があった。
ある客が「この辺には兎が少ないのに、よく材料が尽きないね」というと、
主人は「実は混ぜ物があります」
「それはなにか」
「牛肉が半分です」
「それにしても君の店で使う兎肉は、大した量だろう」
「いや牛一匹兎一匹です」で、客はあっけにとられたとの話である。
満洲国政府は、まさにこの兎肉サンドイッチであったのだ。
![]() 欺かれた歴史 松岡洋右と三国同盟の裏面 中公文庫 / 斎藤良衛 【文庫】 |