岸信介、白洲次郎の本がとてもおもしろかったので、同じ著者の本を借りてきた。
かなりびっくりしたのが、西郷隆盛の本名は、西郷隆永(りゅうえい)であったこと
隆盛というのは、私達が考える西郷隆盛の父親の名前なのだそうです。
明治政府になり、辞令が出る段階で、本名(忌み名、諱)を書く必要があり、役所が西郷の幼少時を知る吉井友実に問い合わせた時に「たしか隆盛じゃった」と答えたのが間違いの由来だそうです。
弟の西郷従道(つぐみち)も同じ
薩摩弁ではラリルレロの発音がダヂヅデドになることが多く、
本名は隆興(りゅうこう)なのだが、読みも漢字も二重に間違われて”従道”(じゅうどう)になり、
かつ世間がこれを「つぐみち」と呼んでしまった
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君が代の歌詞は、大山(巌)が彼の好きだった薩摩琵琶の名曲「蓬莱山」の一節から採ったものだと言われている。
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桜田門外の変は、井伊のような高圧的姿勢で諸藩を服従させることはもはや不可能であることを幕府に再認識させた。
この後は穏健派の老中安藤信正が中心となって、生前、斉彬が推進しようとしていた公武合体運動へと再び振り子が戻される。
そして実現したのが皇女和宮の将軍家降嫁であった。
政略結婚の発想であり、戦国時代と変わるところはない。
すでに婚約者が板にもかかわらず婚約を解消させられ、本人の意向をよそに話は進められた。
その婚約者の名は有栖川宮熾仁親王。
後に彼は東征大総督に就任し、倒幕軍の総大将として江戸に攻め上がってくるという皮肉を歴史は用意する。
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勝海舟と西郷隆盛の出会いは、江戸城無血開城が最初ではない。
元治元年(1864)9月11日、二人は大阪で顔を合わせることになる。
当時、勝は軍艦奉行で、できたばかりの神戸海軍操練所頭取も兼務する幕府の最高幹部。
年も西郷より4つ上である。
居丈高な態度で来られたら幕府の問題点を挙げてやっつけてやろうと身構えていたが、
驚いたことに勝の方から幕閣の頭の固さや腐敗ぶりについて包み隠さず話してくれた。
それどころか、
「西郷さん、もはや幕府に添加を維持する力なんかねえんだ。
雄藩が連合して国政を改革しなきゃ、この国は終わっちまう!
長州と戦ってる場合じゃないでしょ!」
と、べらんめえ調で、幕府から早く政権をバトンタッチしてくれとばかりのことを早口にまくしたててくる。
幕府幹部とは思えない発言に、西郷は目を丸くした。
==============
「坂本龍馬海援隊始末記」(平尾道雄著)には次のような逸話も紹介されている。
着の身着のままで鹿児島に来た龍馬が、
「一番古い褌をくださらんか?」とイトにお願いし、
彼女は言われるままに使い古しの褌を与えた。
帰宅した西郷はそれを聞いて、
「お国のために命を捨てようという人だというちょるのがわからんか!」
と言って叱ったという。
そして夜、坂本が横になった時、狭い家だけに隣室の夫婦の会話が聞こえてきた。
「家の屋根が腐って雨漏りがして困りもす。どうか早く修繕してくださらんか」
イトがそうお願いしている。
すると西郷は、
「今は日本全国が雨漏りしている時ごわんど」
と諭したという。
==============
明治二年6月、西郷は維新第一の功により賞典禄永世二千石を下賜され、
同年9月には正三位に叙せられたが、
「官職にも就いておらんのに官位は不要でごわんど。
本当に勲功があったのは死んでいったもんでごわす。
彼らが賞典禄をもらえず、生き残ったわしがもらうのは理屈に合わん」
と言って返上を願い出た。
同年12月、手狭になった上之園町の屋敷を売って武村に移った。
薩摩の名家である二階堂家の元別邸である。
ようやく重臣らしい住まいとなった。
明治三年一月には藩の参政を辞し、藩政顧問としてわずか百五十俵を支給される身となる。
西郷は役所の臨時賞与に関してお伺いを立てられると、
「瓢箪(ひょうたん)なり」とよく口にした。
上に薄く下に厚くせよという意味である。
だが新政府の高官の多くは高給を得てかつての大名屋敷に住み、贅沢な暮らしをしている。
西郷にはそれが我慢ならなかった。
同様の憤りを感じているものは多い。
森有礼(初代文部大臣)の実兄で、西郷の可愛がっていた二才(にせ)の一人横山安武は、何と自らの命を投げ打って抗議する。
明治三年7月27日払暁、彼は「時弊十条」という抗議文を集議院(明治初期の議会)の門扉に結びつけ、近くの津軽藩邸の前に座ると腹かき切って果てたのだ。
享年二十七。
西郷は大きな衝撃を受けた。
次世代に希望を持たせるような国家を目指したはずなのに、若者に死をもって抗議したくなるほどの失望を味わわせてしまった。
それはすべて自分の責任である。
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南洲翁遺訓
正道を踏み国をもって斃(たお)るるの精神なくば、外国交際は全かるべからず
という名言があるが、この時の西郷の心中がまさにこれであった。
当時も今も、外交官、いや国政に携わる者はみな、心に留めておくべき言葉だろう。
かなりびっくりしたのが、西郷隆盛の本名は、西郷隆永(りゅうえい)であったこと
隆盛というのは、私達が考える西郷隆盛の父親の名前なのだそうです。
明治政府になり、辞令が出る段階で、本名(忌み名、諱)を書く必要があり、役所が西郷の幼少時を知る吉井友実に問い合わせた時に「たしか隆盛じゃった」と答えたのが間違いの由来だそうです。
弟の西郷従道(つぐみち)も同じ
薩摩弁ではラリルレロの発音がダヂヅデドになることが多く、
本名は隆興(りゅうこう)なのだが、読みも漢字も二重に間違われて”従道”(じゅうどう)になり、
かつ世間がこれを「つぐみち」と呼んでしまった
===============
君が代の歌詞は、大山(巌)が彼の好きだった薩摩琵琶の名曲「蓬莱山」の一節から採ったものだと言われている。
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桜田門外の変は、井伊のような高圧的姿勢で諸藩を服従させることはもはや不可能であることを幕府に再認識させた。
この後は穏健派の老中安藤信正が中心となって、生前、斉彬が推進しようとしていた公武合体運動へと再び振り子が戻される。
そして実現したのが皇女和宮の将軍家降嫁であった。
政略結婚の発想であり、戦国時代と変わるところはない。
すでに婚約者が板にもかかわらず婚約を解消させられ、本人の意向をよそに話は進められた。
その婚約者の名は有栖川宮熾仁親王。
後に彼は東征大総督に就任し、倒幕軍の総大将として江戸に攻め上がってくるという皮肉を歴史は用意する。
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勝海舟と西郷隆盛の出会いは、江戸城無血開城が最初ではない。
元治元年(1864)9月11日、二人は大阪で顔を合わせることになる。
当時、勝は軍艦奉行で、できたばかりの神戸海軍操練所頭取も兼務する幕府の最高幹部。
年も西郷より4つ上である。
居丈高な態度で来られたら幕府の問題点を挙げてやっつけてやろうと身構えていたが、
驚いたことに勝の方から幕閣の頭の固さや腐敗ぶりについて包み隠さず話してくれた。
それどころか、
「西郷さん、もはや幕府に添加を維持する力なんかねえんだ。
雄藩が連合して国政を改革しなきゃ、この国は終わっちまう!
長州と戦ってる場合じゃないでしょ!」
と、べらんめえ調で、幕府から早く政権をバトンタッチしてくれとばかりのことを早口にまくしたててくる。
幕府幹部とは思えない発言に、西郷は目を丸くした。
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「坂本龍馬海援隊始末記」(平尾道雄著)には次のような逸話も紹介されている。
着の身着のままで鹿児島に来た龍馬が、
「一番古い褌をくださらんか?」とイトにお願いし、
彼女は言われるままに使い古しの褌を与えた。
帰宅した西郷はそれを聞いて、
「お国のために命を捨てようという人だというちょるのがわからんか!」
と言って叱ったという。
そして夜、坂本が横になった時、狭い家だけに隣室の夫婦の会話が聞こえてきた。
「家の屋根が腐って雨漏りがして困りもす。どうか早く修繕してくださらんか」
イトがそうお願いしている。
すると西郷は、
「今は日本全国が雨漏りしている時ごわんど」
と諭したという。
==============
明治二年6月、西郷は維新第一の功により賞典禄永世二千石を下賜され、
同年9月には正三位に叙せられたが、
「官職にも就いておらんのに官位は不要でごわんど。
本当に勲功があったのは死んでいったもんでごわす。
彼らが賞典禄をもらえず、生き残ったわしがもらうのは理屈に合わん」
と言って返上を願い出た。
同年12月、手狭になった上之園町の屋敷を売って武村に移った。
薩摩の名家である二階堂家の元別邸である。
ようやく重臣らしい住まいとなった。
明治三年一月には藩の参政を辞し、藩政顧問としてわずか百五十俵を支給される身となる。
西郷は役所の臨時賞与に関してお伺いを立てられると、
「瓢箪(ひょうたん)なり」とよく口にした。
上に薄く下に厚くせよという意味である。
だが新政府の高官の多くは高給を得てかつての大名屋敷に住み、贅沢な暮らしをしている。
西郷にはそれが我慢ならなかった。
同様の憤りを感じているものは多い。
森有礼(初代文部大臣)の実兄で、西郷の可愛がっていた二才(にせ)の一人横山安武は、何と自らの命を投げ打って抗議する。
明治三年7月27日払暁、彼は「時弊十条」という抗議文を集議院(明治初期の議会)の門扉に結びつけ、近くの津軽藩邸の前に座ると腹かき切って果てたのだ。
享年二十七。
西郷は大きな衝撃を受けた。
次世代に希望を持たせるような国家を目指したはずなのに、若者に死をもって抗議したくなるほどの失望を味わわせてしまった。
それはすべて自分の責任である。
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南洲翁遺訓
正道を踏み国をもって斃(たお)るるの精神なくば、外国交際は全かるべからず
という名言があるが、この時の西郷の心中がまさにこれであった。
当時も今も、外交官、いや国政に携わる者はみな、心に留めておくべき言葉だろう。
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