三代とあるが、実質張作霖と張学良の歴史です。
著者は戦前の陸軍士官学校卒業生で戦時中はパイロットとして活躍され、
戦後は復員省史実部で戦史を担当したり、東京裁判中は法務調査部に属していた。
溥儀夫妻(ラストエンペラー)の一行は、張作霖などに帝室の所有地や財産を奪われたりした。
そんな中1924年11月29日、溥儀は老臣一名を連れて日本公使館に逃げ込み、
つづいて皇妃も入館した。
公使芳澤謙吉は暖かく貴賓として迎え入れ公使官邸の二階三室を提供したが、
狭いため一ヶ月後に理事官官舎を提供し、夫妻はここに70日滞在した。
溥儀は「日本公使館は仙境である」と喜んだ。
広大な紫禁城より住み心地が良かったのであろう。
しかし日本が帝制を支持していると中国側が誤解するのを恐れた日本政府は、
住居を天津租界に移すこととし、
帝は変装して三等車に乗り鉄道で天津の日本租界の張園に向かった。
この溥儀が十年後に満州帝国の帝位に昇ることになる。
なお、彼は一年前の関東大震災の時、日本国民の見舞いとして20万円を寄付している。
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米の外交官ジョン・マクマリの1935年の覚書
「ワシントン体制から最初に脱落したのは中国であった。
この条約は主権回復に至る手続きや、中国の義務を定めていたのに、
中国はこれを無視して帝国主義権益の即時回収を叫び、
暴力行使を含む革命外交に出た。
中国の国情からしてやむを得ない面もあったが、
問題は日英米三国が強調して中国革命外交に対処せず、
それぞれ自国だけは中国の批判を免れようと、譲歩=好意を示し始めたことにあった。
この競争で一番不利だったのは、最大の帝国主義権益を満州に持つ日本であった。
アメリカは自らは譲歩を見せかけ、巧みに革命外交の標的を満州に向けさせ、
日本陸軍を暴発させ、ワシントン体制を崩壊させてしまった。
日米協調路線を選ぶこともできたアメリカが、
広く長期的な視野を欠いた親中政策をとったことから、アジアの悲劇は始まったのだ」
とし、さらにこの覚書は今後の予言を述べている。
「いずれ日中全面戦争となり、アメリカも巻き込まれる。
大きな犠牲を払えば勝利も得られるが、アメリカは得るところがないであろう。
対日戦で中国国民党は痛手を受け、結局中国共産党とソ連の進出を招くだけであろう」
歴史の流れを見事に予測した達見である。
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対支借款の内容は、西原借款(寺内内閣が中国の段祺瑞政権に与えた2億6千万円の借款)
などの政治借款と称せられるものをも合計すれば、元利合計10億円にも達しているが、
この政治借款について南京政府は全然責任なきが如き態度をとっている。
その不都合は別としても、明らかに南京政府において償還の義務を有しながら
知らんふりをしたものの主なものをあげよう。
ーー中略ーー
よって現在これらの元利金を正確に計算すれば3億円に達するであろう、
しかもいずれも元利償還期限がとっくに経過しているものであり
いつでもこれがとりたてをなす権利のあるものであるが、
支那の財政の状態を考慮して断固たる処置をとらずに来たものである。
これは中国人の癖であるが、借金踏み倒しに際していうことは、
「借りた時、私貧乏で力弱かった。
貴君は金持ちで力強かった。
不公平な関係で締結した契約はこれ無効よ。再見(さよなら)」
現在対中借款は年々巨額になっているが、中華人民共和国は将来、完済できるのだろうか。
<蒋介石>
戦後、著者と張学良との会話
著者「将軍は、蒋介石の暗い経歴を知っていたのか。
彼が日本の陸軍士官学校へ留学したのも嘘だし、上海の青幣の殺し屋出身で、
その犯罪記録は百年にわたる租界工部局(警視庁)の保有した記録の中で最大量と言われている。
シンガポールの倉庫に保管されているのを1965年にCIAが発見したそうだが」
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張家三代の興亡 孝文・作霖・学良の”見果てぬ夢” 古野直
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