この本、かなりいい
チャイナナインなどを書いている遠藤誉さんの本
毛沢東を徹底的に調べた本
これまでの本は朝日だったけど、今回は新潮
朝日では掲載できなかったんでしょうか![]()
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この本を読んで思ったけど、日本が中華人民共和国を作ったと言っても過言ではない
どんだけお人好しなんだろう、我が国は
あと、張作霖爆殺事件が、
蒋介石が北伐において張作霖を追い詰め、張作霖が北京から撤退した、そのときに起きたことを知った。
時系列や背景を知るとまた少し異なる見方もできそうだ。
日本はとかく歴史を自国の事情しか関連させないで判断しようとする節があるが、
諸外国の動きが関連していることを考えなければならない。
===================
国民党内に「左派」と「右派」というレッテルを生み出し、
「左派」と「右派」をアピールしてイデオロギー的に異なるという固定概念を植え付けよという指令は、
最初の段階からコミンテルンが出していた。
そうすれば国民党を内部から分裂させることができるという作戦である。
=================
「毛沢東年譜」によれば、中国(中華人民共和国)が1949年10月1日に誕生すると、
その年の12月23日に中央人民政府政務院(現在の国務院)が抗日戦争勝利記念日を
8月15日にしようと決定した。
しかし実際には何もしておらず、よくよく調べてみると、中華民国の蒋介石が9月3日にしていたことを知って、1951年8月13日に、「9月3日」にすると、文書上に決めたような始末だ。
=================
日本の中国侵略がなかったら、いま私たちの隣にある国は共産主義政権ではなく、
国民党政権だったはずだ。
蒋介石の間は独裁を続けたかもしれないが、きっと現在の台湾がそうであるように、
いつかは民主主義の国家に変貌していたことだろう。
この機密費は、日本国民の血と汗の結晶だ。
食べるものも食べず、着るものも節約して「ぜいたくは敵だ!」と我慢を強いられた国民は、
その血税を、実は中共をとみ肥やすために湯水のごとく使われていたのである。
岩井英一が貴重な記録を残してくれたことに対しては、我々は感謝しなければならない。
しかしそこから見えてきたのは、「毛沢東が日本軍と共謀していた事実」だけでなく、
日本国民の血税が中共を強大化させ、現在の中華人民共和国を誕生させるために使われていたという、もう一つの厳然たる事実だった。
================
たとえば1941年5月に山西省晋南の中條山における日本軍と国民党政府軍との戦いで、
山西省北部にいた八路軍が、日本軍と示し合わせて国民党政府軍を挟み撃ちにしたのである。
これは潘漢年が岩井英一に「中共軍と日本軍の間に停戦」を申し入れ、
重慶の国民党政府軍の軍事情報を盛んに日本側に高額で売り渡していたときのことである。
さらに蒋介石は回顧録の中で、はっきりと「共産党は(国民党重慶)政府軍の軍事上の部署や作戦計画を日本軍の特務機関に漏らした」と明記している。
==================
蒋介石自身も、敵軍捕虜をここまで保護して1年後には100万に上る捕虜を全員本国に送り届けたという例は、世界史上、初めてのことだろうと書いている。
しかし、この1年間のロスが、日中戦争で第一線に立って戦いぼろぼろに疲弊していた蒋介石軍に、どれだけおおきなダメージを与えたか、想像に難くない。
===================
105万に及ぶ復員兵の帰還作業は、ふつうなら5年はかかるところ(岡村も蒋介石もそう思っていたが)、
1946年夏にはほぼ完了した。
領海の関係上、日本までの輸送はアメリカ軍が上陸用船艇母艦のLSTが多数提供された。
日本人居留民計130万人強の帰還も夏には始まり秋口には終了していた。
となるともはや、岡村を日本官兵善後総連絡部長に留めておく理由もない。
しかし蒋介石は岡村を中国における軍事裁判にかける日程を、理由をつけては引き延ばし、
日本帰還を遅らせた。
なぜなら東京では軍事裁判が進行していたからである。
日本に帰還させれば岡村は必ず戦犯として何らかの重い罰を受けるだろう。
中国内でも岡村の戦犯問題が大きく取り上げられ始めた。
これ以上引き延ばせないと思っていたところに岡村が39度の高熱を出す。
長年煩っていた肺結核がいよいよ悪化したのだ。
そこで治療のため上海の病院に移り、以来10ヶ月ほどの療養を受ける。
チャイナナインなどを書いている遠藤誉さんの本
毛沢東を徹底的に調べた本
これまでの本は朝日だったけど、今回は新潮
朝日では掲載できなかったんでしょうか



この本を読んで思ったけど、日本が中華人民共和国を作ったと言っても過言ではない
どんだけお人好しなんだろう、我が国は
あと、張作霖爆殺事件が、
蒋介石が北伐において張作霖を追い詰め、張作霖が北京から撤退した、そのときに起きたことを知った。
時系列や背景を知るとまた少し異なる見方もできそうだ。
日本はとかく歴史を自国の事情しか関連させないで判断しようとする節があるが、
諸外国の動きが関連していることを考えなければならない。
===================
国民党内に「左派」と「右派」というレッテルを生み出し、
「左派」と「右派」をアピールしてイデオロギー的に異なるという固定概念を植え付けよという指令は、
最初の段階からコミンテルンが出していた。
そうすれば国民党を内部から分裂させることができるという作戦である。
=================
「毛沢東年譜」によれば、中国(中華人民共和国)が1949年10月1日に誕生すると、
その年の12月23日に中央人民政府政務院(現在の国務院)が抗日戦争勝利記念日を
8月15日にしようと決定した。
しかし実際には何もしておらず、よくよく調べてみると、中華民国の蒋介石が9月3日にしていたことを知って、1951年8月13日に、「9月3日」にすると、文書上に決めたような始末だ。
=================
日本の中国侵略がなかったら、いま私たちの隣にある国は共産主義政権ではなく、
国民党政権だったはずだ。
蒋介石の間は独裁を続けたかもしれないが、きっと現在の台湾がそうであるように、
いつかは民主主義の国家に変貌していたことだろう。
この機密費は、日本国民の血と汗の結晶だ。
食べるものも食べず、着るものも節約して「ぜいたくは敵だ!」と我慢を強いられた国民は、
その血税を、実は中共をとみ肥やすために湯水のごとく使われていたのである。
岩井英一が貴重な記録を残してくれたことに対しては、我々は感謝しなければならない。
しかしそこから見えてきたのは、「毛沢東が日本軍と共謀していた事実」だけでなく、
日本国民の血税が中共を強大化させ、現在の中華人民共和国を誕生させるために使われていたという、もう一つの厳然たる事実だった。
================
たとえば1941年5月に山西省晋南の中條山における日本軍と国民党政府軍との戦いで、
山西省北部にいた八路軍が、日本軍と示し合わせて国民党政府軍を挟み撃ちにしたのである。
これは潘漢年が岩井英一に「中共軍と日本軍の間に停戦」を申し入れ、
重慶の国民党政府軍の軍事情報を盛んに日本側に高額で売り渡していたときのことである。
さらに蒋介石は回顧録の中で、はっきりと「共産党は(国民党重慶)政府軍の軍事上の部署や作戦計画を日本軍の特務機関に漏らした」と明記している。
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蒋介石自身も、敵軍捕虜をここまで保護して1年後には100万に上る捕虜を全員本国に送り届けたという例は、世界史上、初めてのことだろうと書いている。
しかし、この1年間のロスが、日中戦争で第一線に立って戦いぼろぼろに疲弊していた蒋介石軍に、どれだけおおきなダメージを与えたか、想像に難くない。
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105万に及ぶ復員兵の帰還作業は、ふつうなら5年はかかるところ(岡村も蒋介石もそう思っていたが)、
1946年夏にはほぼ完了した。
領海の関係上、日本までの輸送はアメリカ軍が上陸用船艇母艦のLSTが多数提供された。
日本人居留民計130万人強の帰還も夏には始まり秋口には終了していた。
となるともはや、岡村を日本官兵善後総連絡部長に留めておく理由もない。
しかし蒋介石は岡村を中国における軍事裁判にかける日程を、理由をつけては引き延ばし、
日本帰還を遅らせた。
なぜなら東京では軍事裁判が進行していたからである。
日本に帰還させれば岡村は必ず戦犯として何らかの重い罰を受けるだろう。
中国内でも岡村の戦犯問題が大きく取り上げられ始めた。
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